”得手”を育てる

「ここにいるとうちとは別人になります」と不思議がるお母さんたちも何人か。

家や学校では相当やんちゃらしいのですが、ここでは、静かに勉強にいそしんでいる姿しか見ないので、物静かな落ち着いた性格とみていた私には想像がつきません。お互い学びあい教えあうとの立場から、欧米の習慣をとりいれて、名前(ファーストネイム)を呼び合うことで、年齢に関係なく一人前の人格を持った存在として対等と思うので、もちろんタメ口もききますが、基本的には丁寧語で伝えます。

また、教えるというより人生の先輩として習得した英語と外国での体験を伝えるのが自分の役目と考えている私は、受け取る側が持っているまだ才能や能力として具体的な形をとってはいない’可能性’を感じ取ろうと努め彼らの声の背後にある’何か’を聞き取ろうと耳を澄まします。

そして「良い」と感じたら間髪を入れず「それ!」「うまい!」’Good’ ‘OK’と気合を入れて応えます。

「しゃべる”間”が英語的」と、言われた当人にとってにわかには理解しがたいほめ言葉も。

むしろ褒められた理由を頭で理解するより、認められた、受け入れられたという言葉にはならない感覚を体験する方が大切と考えます。そうやって’やれる’、’できそうだ’という感覚を時間をかけて育てていくのです。

「あ、またまちがえた」、「やっぱりだめだ」と事あるごとに自己否定語を発する女生徒がいました。

「日本には、”言霊”と言って言葉には実現する力があるという考えがあって、いいことも悪いことも言ったり思ったりするとそれが実現するらしいわよ」と言いましたら、何か感じたらしく、それから自己否定のオンパレイドは消えました。

そのうち、「ああ、そうか、ほかの科目もこうやって勉強すればいいんだ」と言って、英語以外は塾に行かず、自力で都立上位高に合格しました。

英語一科目の習錬を通して、こうした合格するメンタリティ(心組み)を時間をかけて育てていくわけですが、これが心の中心にないと、いくら模試でA判定をとっても合格を保証されるわけではない、一応合格圏内には達しているというあくまで目安に過ぎず、むしろデイタや点数至上主義は危ないというのが長年の経験からの思いです。

このようにして、どんな小さな可能性の芽であれ、生徒自身が見せるいいところをすかさず取り上げてほめることで、本人自身が、’できる’という感覚を育てていきます。

勿論、一朝一夕に成し遂げられることではありません。時間がかかります。

何年かかけて、’自分はこれこれができる’といった具体的な事への自信ではなく、言葉にはならないけれど、文字どうりそこはかとなく自分に対する信が感じられるようになると、高3の春か初秋のころのレッスンで「今日、あなたは合格の道にはいりました」と言うことがあります。

「ああ、これで大丈夫」と感じて言葉にするのですが、言われた本人も、何となくそう感じ取っているという手ごたえがあります。

私は神さまではないので、「志望校に合格する」と断言することはできません。でも、本人にとって一番良い学校に合格するという確信がもてますし、実際そうなっていると思います。

本人の数年にわたる地道な勉強があっての話です。

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